ゆとり系おじさんの@年80万円生活

フィリピン国ダバオ市で生活費の範囲内で出来る楽しい事やフィリピンの文化等を紹介してます!!

フィリピンの歴史とドゥテルテ大統領の家

皆さん、こんにちは。えくえくです(#^^#)

さて今回はフィリピンの歴史です。最後にドゥテルテ大統領の家も出てきますよ!!

 

フィリピンに到達した初のスペイン人は1521年のマゼラン率いるスペイン船団です。マゼランはフィリピンにたどりつくと、鎧と槍、火縄銃、大砲などの武器の威力を背景に部族長たちに対してスペイン王への服属および朝貢キリスト教に改宗したセブ王への服従ならびにキリスト教への改宗を要求し、部族長を次々と服従させていきました。しかしイスラムの部族長ラプラプはこれを拒絶しました。マゼランは激怒し、ラプラプ討伐のためマクタン島へ軍を派遣しました。ラプラプ軍は甲冑で身を固めたスペイン兵の足が無防備なことを見抜くなど、巧みな戦術によってマゼラン軍を破り、ついにマゼラン本人を殺害しました。リーダーを失ったマゼランの配下たちは退却していきました。

 

スペインは1529年にフィリピンの領有をサラゴザ条約をもってポルトガルに認めさせました。1543年にはルイ・ロペス率いるスペイン船団がサマール島とレイテ島に到着、この島々にフェリペ皇太子(後のフェリペ二世)にちなみ「ラス・イスラス・フェリピナス (Las Islas Felipinas,フェリペナス諸島) 」と命名したのがフィリピンの国名の由来です。

 

17世紀に入ると、政治的にスペインと対立し、東アジアへの進出が盛んだったオランダ連合東インド会社によるフィリピン攻撃が1610年、1660年と断続的に行われました。ヌエバエスパーニャ副王政府は、こうしたオランダによるフィリピン攻撃からの防衛費をも負担しました。1603年には、マニラで最初の華人反乱が起きてます。そして1621年にかけてBankaw Revoltが起きました。

 

18世紀に入ると、七年戦争の最中の1762年にそれまでフィリピンとの密輸を続けていたイギリス東インド会社によってマニラが占領されました。イギリス人は1764年にフィリピンから撤退したが、この事件はスペインによるフィリピン経営のあり方を再考させる一つのきっかけとなり、カルロス三世のボルボーン改革によってフィリピンにもタバコの強制栽培、専売制度の確立(1782)や王立フィリピン会社の設立(1785)など、プランテーション農業を基盤とした開発型植民地への転換を目指した政策が導入されました。

 

1809年にはイギリスがマニラに商館を設立した。スペインのフィリピン経営における商品作物の栽培や鉱山開発は失敗に終わったが、イギリス海賊の跳梁やメキシコ独立戦争の影響のため1815年にガレオン貿易が廃止され、19世紀初めにフィリピンは重商手技的植民地支配から自由主義的植民地支配に移行しました。

 

貿易の自由化に伴うアメリカ合衆国やイギリスとの貿易の拡大は、18世紀以来の高等教育の拡充と合わせて19世紀には自由主義思想がフィリピン原住民の間にも流入しました。19世紀末になると、フィリピンにおける有産階級が成長したことや、世界各地を結ぶ航路が整備されたことなどを背景として、フィリピンからスペインへ留学する層が形成されることになった。こうした経験を通じてフィリピンにおけるナショナリズム形成の重要性を感じた留学生、知識人は、徐々に本国政府への改革要求を強め、民族運動を展開していきました。

 

1888年にはバルセロナでフィリピン人によって結社「団結」が結成された。1892年にはホセ・リサールがフィリピンに帰国して「ラ・リガ・フィリピナ(フィリピン民族同盟)」を結成するが、結成間もなくスペインに対する反逆罪で逮捕されるなど弾圧も強化されていきました。

 

アメリカ統治時代 1898~1946

 

★米比戦争

アメリカ合衆国との間に米比戦争が勃発、翌1899年1月23日にアギナルドはマロロス憲法を公布しフィリピン共和国を樹立、初代大統領に就任しました。1900年には当時の首都マロロスが陥落し正規軍は解散、ゲリラ戦を展開するが、翌1901年3月、イザベラ州パラナンでアギナルドは米軍に捕らえられアメリカの主権を認めざるを得なくなりました。

米比戦争には12万人のアメリカ兵が投入され、4500人のアメリカ兵の戦死者と20万人の一般フィリピン人の死亡者を出した末、ゲリラ化した革命軍の制圧を続け、1901年7月にはアメリカ軍の軍政から民政移管が実現し、1902年7月に合衆国議会で成立したフィリピン組織法を法的根拠に、陸軍長官ウィリアム・タフトの主導によってフィリピンの植民地化が進みました。

 

第二次世界大戦下のフィリピン

★日本軍の上陸

1941年12月8日に日本が米英に宣戦布告し太平洋戦争が勃発すると、南畝作戦の一環として第14軍がフィリピンに上陸し、1942年1月2日に日本軍はマニラを占領した。その後、4月にバターン半島、5月にコレヒドール島の米比軍を降伏させ、翌5月7日にアメリカ極東陸軍(ユサフェ)の全軍が降伏を宣言しました。

すでにダグラス・マッカーサーと共にオーストラリアに逃亡していたマヌエル・ケソン大統領は、その後アメリカ合衆国に渡ってワシントンにて亡命政府を建てた。日本は従来までの統治機構を出来る限り活用しようとしたが、政治的決定の多くは日本に委ねられていました。

 

日本は民心を回復するために、1943年10月14日、ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国の独立を認めた。日本はラウレル政権と同盟条約を締結し、形式面では日本の軍政期が終わった。ラウレル大統領は11月に東京で開催された大東亜会議に出席しています。しかしラウレル政権はフィリピン民衆の広範な支持を得ることができす、ラウレル政権は戦前からの地主支配の継続を認めたためにフィリピン親日勢力の離反を招き、ラウレル政権側も日本との協力を拒否する姿勢をとったため、日本は1944年12月にベニグモ・ラモスとアルテミオ・リカルテをはじめとするフィリピン独立運動家達によって設立されたフィリピン愛国連盟(マカピリ)を新たな協力者としました。

 

マグサイサイ政権以降年表

1953年11月にフクバラハップ討伐の功績が評価されたことにより、国民党のマグサイサイが大統領に当選しました。この年、ABS(現在のABS-CBN)がテレビ本放送を開始。

 

1950年代から1960年代にかけてナショナリズムが盛り上がり、1966年から民族主義青年同盟(KM)によって文化大革命に影響を受けた第二次プロパガンダ運動が展開され、文化や教育のフィリピン化が目指された。

 

1956年には日比賠償協定が調印され、日比国交が回復した。1957年にはマグサイサイ大統領が事故死。後継はカルロス・ガルシアがなりました。

 

1961年、ディオスダド・マカパガルが大統領に当選。独立記念日をそれまでの7月4日から6月12日に変更されました。

 

1965年に国民党から大統領に就任したフェルディナンド・マルコスは、強権政治の下でフィリピンを統治しました。

 

1968年には毛沢東主義に基づくフィリピン共産党(CPP)が再建され、翌1969年3月には軍事部門の新人民軍(通称NPA,New Peoples Army)を結成してゲリラ戦を開始し、南部でもムスリムが1970年にモロ民族解放戦線を結成し、ミンダナオ島で反乱を開始しました。

 

1969年腐敗選挙で再選されたマルコスは両組織の反乱を理由に1972年に全土に戒厳令を敷き、新社会建設を掲げて議会の閉鎖、既存支配層の排除、軍隊が政府機能を掌握した。マルコス政権による農地改革は実効性を持ち、自作農が創設され、米の自給もある程度可能になるなどの成果もあり、外国資本の積極導入を柱とした経済政策により1970年代を通して年率6-7%のGNP成長を達成しました。

 

マルコスとイメルダ・マルコス夫人をはじめとした取り巻きによる政治の私物化と腐敗政治が進み、対外債務の膨張が財政を逼迫させるなど徐々に政権は危機的な様相を帯びてきました。1981年に戒厳令は解除されましたが、1983年に政敵の元上院議員ベニグノ・アキノがマニラ空港で暗殺されました。これで反体制派の怒りを増し、こうした国民の不満の爆発を受け、1986年2月の選挙をきっかけにエドゥサ革命が勃発し、マルコス夫妻はハワイに亡命、1989年にハワイで死去しました。

 

新たに大統領に就任したコラソン・アキノは7度のクーデター未遂に見舞われ1989年には軍反乱事件が起き、アキノ政権はアメリカ軍の助力を得てクーデターを鎮圧した。

 

1992年に大統領に就任したフィデル・ラモス新自由主義的な民営化政策と規制緩和を徹底し、経済成長率の上昇を実現したが、他方でこの経済成長は雇用を拡大せず、出稼ぎに依存するフィリピン経済の性格は維持されました。同年、米軍撤退完了。

 

1998年、ジョセフ・エストラーダが大統領就任するが、2000年下院、エストラーダ大統領を弾劾。市民デモ(ピープルパワー)が活発になり、2001年 第二人民革命が起きる。

 

2004年 グロリア・アロヨ大統領選挙で当選。しかしその後アロヨは選挙の不正を認め国民に謝罪。2005年にはスビク湾の婦女暴行事件で、駐留米兵4人逮捕。付加価値税の引き上げ。

 

2010年、ベニグノ・アキノ三世が大統領就任。

 

2016年、ロドリゴ・ロア・ドゥテルテが大統領に就任。

 

と、こうなるわけです。現在の大統領ドゥテルテ氏は派手なパフォーマンスで知られてますが実は元々弁護士で、ダバオ市長を約20年間務めた人です。

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どうですか、上の画像?普通の家でしょ?アキノ元大統領や財閥系の政治家の家は、家というよりほとんどお城。それを考えると、いかにドゥテルテ氏が庶民派の大統領かということがわかります。ちなみに私の顔はお見苦しいのでスタンプで隠しました(-_-;)

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ちなみにこの地域ではまだこういうドゥテルテグッズが売られてます。ここは観光名所になってますからね。もちろん私も何個か買いました。さてどのステッカーを車に貼ろっかな・・・と、妙な終わり方で大変失礼しました(;^_^A

 

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